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知っているようで知らない「質屋」の話 vol.28

2022年03月11日

がん闘病と父子の和解

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教育論で父と真正面からぶつかった後も、大学院での激務が続き、私の心身は次第に疲弊し、ついに退職を決意します。それについても父から猛反対されました。私を大学院に推薦したときいわき市教育委員会次長という立場に父がいたというのも反対理由のひとつだったと思います。しかし、私は自分の意思を貫きました。

退職後は体調も回復し、質屋の修業を始め、ブレラ質アキヤマを開店した次第です。父は長らく「息子は教員のキャリアを捨ててしまった。もったいないことだ」と不満に思っていたようです。

その後、父はがんを発症しました。私は父に1日も長く生きてもらいたい気持ちから、可能な限り最先端の治療を求め、郡山や東京への通院にも何度も付き添いました。父が一人で郡山に通院していたとき、ブレラ質アキヤマに寄ってくれたこともあります。がんの診断から5年ほど経った頃、私はお酒、父は酒以外の飲み物を酌み交わしているときのことです。父が言いました「お前が先生を続けていたら、通院や治療に寄り添ってもらうことはできなかったな。感謝しているよ」。長年のわだかまりはいつの間にか消えていたようでした。


父の応援を心の支えに

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父の東京への通院はコロナのためかなわなくなったのですが、コロナでなければもっと長く生きていたかもしれません。それでも、医師からはステージ4のがん患者が9年も生きた事例はあまりないと伺っています。病気や治療のつらさに耐え、脳などに転移した後もあきらめなかった父。本当によくがんばったと息子として誇りに思います。亡くなる1~2時間前まで意識があり、母と叔父が見守る中、自宅で永遠の眠りについたことも幸いだったのではないでしょうか。

誰もがいつかはあの世に旅立ちます。そして、遺族は悲しみに暮れる中、葬儀を執り行わなければなりません。でも、父の葬儀を通して父の想いや生き様を感じられたのはいうまでもなく、葬儀会社の担当者さんとの絆を深められたのも私にとって得難い経験になりました。

教員から質屋に転向した私を最終的には認め、応援してくれた父。葬儀という私的な内容をコラムにすることで私の気持ちも整理できたように思います。4回にわたり、プライベートなコラムにお付き合いいただきありがとうございました。今後も亡き父の応援を胸に、ますます質屋の仕事に精進して参ります。