Brera質アキヤマ 知るほど・なるほど 「東日本大震災を経て」記事一覧

未曾有の大災害~東日本大震災を振り返る Vol.3

2016年05月07日

4月に熊本県を中心に発生した地震により、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。このたび、Brera質アキヤマでは「平成28年熊本地震災害義援金」募金箱を設置いたしました。設置期間は平成28年6月30日までです。お預かりした募金は、日本赤十字社を通じて現地へお送りします。皆さまのご協力をお願いいたします。

福島に残された震災の爪痕はいまだ深いものの、これまで質屋を続けることができたのは、お客様や福島を応援してくださった全国の皆様のおかげです。今度は私たちが熊本を応援する番です。



地震直後からお客様がご来店

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店を続けると決心してすぐ、意外なことにお客様が、次々と来店されるようになりました。金やプラチナなどの貴金属をお金に換え、家の修繕費や当面の生活費に充てるためとのこと。中には、「沖縄に避難することになってね。その資金をつくりに来たよ」というお客様もいらっしゃいました。

地震、津波、原発事故。人生にも店の経営にも大打撃を受けた直後でしたが、「Brera質アキヤマが、お客様のお役に立てているんだ」と思うとうれしくなり、「店を立て直せるかもしれない」と希望もわいてきました。


震災で感じた質屋の存在の意味

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来店されるお客様の中には、元々原発近くにお住まいで、一時避難のために郡山に引っ越して来られた方もいました。私が「前に大熊町に住んでいたんですよ」と話すとすぐに打ち解け、会話がはずんだことも。さらに、貴金属の換金だけでなく、ブランドバッグをお求めになるお客様も現れるようになりました。ブランド品は、震災で傷ついた心を明るく照らす魅力を秘めているのでしょう。こんなときだからこそ、華やかなブランドバッグを手にしたいお客様の気持ちが私にも伝わってきました。「貴金属がお客様の暮らしを支え、ブランド品が心を満たすんだ」。こんな時に質屋としてお客様の心の支えができたことが嬉しく感じました。

店の建物は鉄筋コンクリートのため、外気を遮断できたのは幸いでしたが、放射性物質の飛散のため、換気扇やエアコンの使用は制限されていました。まだ寒い時期でしたから、私たちは沸かしたお湯をペットボトルに入れ、湯たんぽ代わりに抱えて暖をとりながら営業を続けたのです。

当初は閑古鳥が鳴くのを覚悟していましたが、震災から1ヶ月弱経った4月初旬には、ほぼ通常どおりの営業が可能に。そのうえ、金の相場が急騰したためにお客様が殺到し、春から夏にかけては震災前より忙しかったほどです。こうしてBrera質アキヤマは何とか震災を乗り越え、今に至ります。

さて、次回から通常通り、「元小学校の先生だった私が質屋になるまで」の半生を振り返るコラムを再開します。引き続きご愛読くださいますよう、よろしくお願いいたします。
(続く)

未曾有の大災害~東日本大震災を振り返る Vol.2

2016年04月08日

店も自宅も滅茶苦茶に

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従業員にケガがなかったのは幸いでしたが、片づけをしながら頭の中は「お店の営業はもうダメかな。ここまでやってきたのに......」という寂しい気持ちでいっぱいでした。ただ、この時点では福島第一原発のことはあまり心配していませんでした。小学校の先生として赴任した最初の地が大熊町だった私は、原発は絶対安全だと聞かされてきたからです。

18時頃、暗くなっても電気がつかないので帰宅。食器棚の扉が開き、食器がすべて落ちて割れていました。冷蔵庫の扉も開きっぱなしで、ピーピー音が鳴っていたのを思い出します。店を出た後、ライフラインの中で最初に電気が復旧したんですね。テレビをつけて地震や津波の様子を改めて知り、家の中を片付けながら公共広告機構のCMばかり流れている異様さに、世の中は尋常ではない状況であるんだなと思いました。

大地震が起ころうと、夜は明けます。翌3月12日、私たち夫婦と従業員たちは店に向かいました。


私たち夫婦の決意

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予想より早く電気が復旧したこともあり、私には「今日は昨日より片付けが進む。何とかなるんじゃないか」という気持ちが芽生えていました。しかし、私の前向きな気持ちは、再び打ちのめされることになります。

それは、福島第一原発の事故です。この日も片付け作業を進めていた私たちは、テレビで原発の水素爆発という信じられないニュースを目の当たりにします。私が大学を卒業して最初に赴任した熊町小学校は、福島第一原発のすぐ近く。子どもたちやそのご家族、一緒に働いていた先生はだいじょうぶだろうか。もちろん、店がある郡山にも影響があるに違いありません。原発の水素爆発のニュースを知れば知るほど、原子炉ごと爆発したときの不安が増すばかり。何とかなるどころか、ここにはいられない。知人や近所の住人が他県へ避難しようとするなか、私たちも避難の準備をしなさいと勧められるようになりました。

しかし、うちは質屋です。お客様の大切な品物をお預かりする使命があります。無人になった店に強盗でも入れば、Brera質アキヤマはおしまいです。私と妻は「避難はしない。店と運命を共にしよう」という意見で一致しました。(続く)

未曾有の大災害~東日本大震災を振り返る Vol.1

2016年03月12日

Brera質アキヤマの3.11

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Brera質アキヤマの代表、秋山実です。こちらのコラムでは、元小学校教員だった私が、質屋に転職したいきさつや、Brera質アキヤマを開く前の修業時代のエピソードなどをお届けしています。私の半生を語るのをちょっとお休みして、3回にわたり、2011年3月11日を振り返りたいと思います。

Brera質アキヤマがオープンしたのは2008年のこと。あろうことか、同年にリーマン・ショックが起こります。そこを何とか乗り越え、オープンから3年経ったころでした。「さあ、これからだ」というときに、東日本大震災が発生したのです。

近所のラーメン店で昼食をすませ、スーパーで買い物をしていたときに、信じられない揺れにおそわれました。買い物かごを放り出して外に逃げ出す人もいたほどです。私も店に戻ろうと帰り道を走っているつもりが、道路がまるでトランポリンのように揺れるため、立ってさえいられないほどでした。


地球が滅亡すると感じた日

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ようやく、店にたどり着いた私はスタッフと妻の無事を確認し、ひとまずは胸をなでおろしました。しかし、揺れたときの話を聞いて青ざめました。

質屋とは、貴金属やブランド物の腕時計、バッグなどを扱うお店です。当店にも、陳列用のガラスケースなどの大きな什器を置いています。最初の大きな揺れが起こったとき、妻は腕時計を陳列する什器が倒れないように押さえていたそうです。ところが、さらに激しく揺れたため、スタッフの一人が「店を出ましょう!」と声をあげてくれました。スタッフ全員が店の外に逃げ出したとたん、先ほどまで妻が押さえていた什器の隣にあった、天井ほどの高さがある大型の什器が傾き、壊れてしまったというのです。ガラスは割れ、めちゃくちゃの状態でした。もし、その場にとどまっていたら、妻は大ケガをしていたことでしょう。

「みんなにケガがなくてよかった」とホッとしたいっぽうで、「こんなにひどい地震だ。リーマン・ショックも乗り越えたけど、うちはもうダメだ」――そんな思いを抱いていました。店どころか、地球が滅亡するとさえ感じていたのですから。(続く)

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